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志賀清林の墓、発見に新説 奈良時代の力士で相撲行司の祖
2016年8月14日
 奈良時代の力士で相撲行司の祖と伝わる志賀清林の墓(大津市木戸)の発見にまつわる100年以上前のはがき2枚が、近くの旧家に保管されていた。大津市歴史博物館の調査で明治時代に京都新聞の前身「日出新聞」に記された発見の経緯と異なるもう一つのエピソードが浮かび上がった。

 6月中旬、同市木戸の中村久夫さん(67)から、清林の墓地捜索に尽力した大相撲の行司木村瀬平(1837〜1905年)が差出人のはがきがある、と京都新聞滋賀本社に連絡があった。文面が漢文で不鮮明な部分もあるため、市歴史博物館の和田光生副館長に調査を依頼した。

 和田副館長によると、1枚は明治33(1900)年1月20日の消印で、瀬平から、中村さんの先祖筋に当たる勇川(いさみがわ)久右エ門方の「荒寅捨吉」宛て。内容は清林の墓が分かったという知らせへの返信と思われ、さらに詳細な調査を依頼していた。もう1枚は年不詳だが同じ捨吉宛てで、瀬平が京都から帰る途中に木戸へ立ち寄り、清林について話をしたいと要望していた。「小生(瀬平)は御貴君(ごきくん)様(荒寅)ヲタノミ拾(じゅう)年前ヨリモ御依頼」とあり、両者の親交の深さがうかがえた。

 これまで清林の墓発見に至る通説は「志賀町史」の中で記された明治35年6月2日付の日出新聞の記事に依拠していた。それによれば、同33年に瀬平から捜索を頼まれた木戸村に住む元力士「加藤山」が、たたりを引き起こすと恐れられていた古い墓を地元の有力者と洗ったところ、あぐらをかいた力士の像を見つけた。同35年5月に現地を訪れた瀬平がこれを清林の墓と見当づけたとされる。

 和田副館長は今回見つかったはがきについて「日出新聞で語られていない経緯の一端を知る貴重な史料。瀬平に協力した木戸村の窓口が少なくとも二つあった」と読み解き、郷土の偉人を顕彰しようとした当時の住民の熱に思いをはせる。

 木戸で14代続く中村さん方には、清林を描いた掛け軸や瀬平の名前入りの手ふき、当時の番付表なども残る。中村さんは「清林のことが忘れられつつある今、目を向けてもらうきっかけになれば」と願っている。
京都新聞


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